(その5)
                  
「梅が開いたわ」

妻の冴子はそう言いながら、梅の小枝を挿した一輪挿しを、茂夫の机の隅に置くと、

また庭へ下りていった。


「紀子!」

机の上に広がった梅の香りに、茂夫は思わず口にした。庭の梅の木を改めて

見ると、白くふんわりと膨らんでいるように見えた。茂夫は唇に人差し指を当て、

左右にちょっと撫でた。梅の香りは、茂夫の唇に紀子の唇の感触を思い出させ

ていた。

           

 

「香水変えた?」

「いいえ」

「なんか梅の香りが」

紀子は何も言わず微笑んでいた。耳たぶのうぶ毛がショーウインドウのガラスに反射

した光の中で輝いていた。紀子の唇の感触が、梅の香りと共に茂夫の唇に纏わり

ついていた。これは忘れることが出来ないかもしれない、と茂夫は思った。その日一日、

梅の香りに包まれたような紀子と肩を並べて街を歩いた。


茂夫は打っていた仕事のメールを中断し、新規メールの窓を開けた。アドレス帳で

紀子のアドレスを探し出し、選択したところで指を止めた。庭に目をやると、梅の小枝

を髪で包もうとしていた妻の冴子と目が合った。

「まさか」

悪戯っぽく微笑んでいるように見えた冴子から目をそらし、茂夫はメールの窓を閉め、

ノートをたたんだ。そしてもう一度、人差し指で唇をそっと撫でた。


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