(その6)
                  
紀子はいつものように髪を頭の後ろで束ねた。髪の仕上がりを確かめるために覗いた

三面鏡の隅に、庭の梅の花が窓ガラス越しに映った。

「そうだ、あれっ」

紀子は庭に下りた。甘い、しかしどこかに芯のある梅の香りが漂い、紀子はそれに

しばし浸った。三つの蕾が、開き始めた一つを包むようにしている小枝を指でちぎり、

部屋に戻った。


髪をほどき、梅の蕾を包むようにして、髪を束ね直し,茂夫からのプレゼントのバレッタ

で留めた。鏡で見る限り、梅の蕾は上手く髪の中に隠すことができたようだった。茂夫

の反応を想い、紀子は自分の顔がほころんでいるのに気づいた。しかし、今日のデート

はこれまでとは違うのだからと、鏡の中の自分に言い聞かせた。

      

 

「なんか梅の香りが」

茂夫の言葉には答えず、紀子は茂夫の目に微笑んだ。茂夫の唇に残った紅の点に

ハンカチを押し当てた。この香りは秘密にしておきたいと思った。その方が、紀子のこと

が梅の香りと一体となって茂夫の記憶に残るだろうという確信に似たものが紀子には

あった。茂夫の幸せのために身を引く自分に、それくらいのご褒美があってもいいだろう

と紀子は思った。

その夜、いつものように茂夫は紀子を自宅の門の前まで送ってくれた。これが最後なの

だと思いつつ、紀子は茂夫の唇に応えた。

「ちょっと待って」

紀子は髪をはらりと解き、まだ香りの消えていない梅の蕾を、茂夫のジャケットの

胸ポケットに挿した。

「おやすみなさい。冴子を幸せにしてあげてね」

努めて平静を装い、紀子は振り返らずに玄関に走った。

   

inserted by FC2 system