「なんか梅の香りが」
茂夫の言葉には答えず、紀子は茂夫の目に微笑んだ。茂夫の唇に残った紅の点に
ハンカチを押し当てた。この香りは秘密にしておきたいと思った。その方が、紀子のこと
が梅の香りと一体となって茂夫の記憶に残るだろうという確信に似たものが紀子には
あった。茂夫の幸せのために身を引く自分に、それくらいのご褒美があってもいいだろう
と紀子は思った。
その夜、いつものように茂夫は紀子を自宅の門の前まで送ってくれた。これが最後なの
だと思いつつ、紀子は茂夫の唇に応えた。
「ちょっと待って」
紀子は髪をはらりと解き、まだ香りの消えていない梅の蕾を、茂夫のジャケットの
胸ポケットに挿した。
「おやすみなさい。冴子を幸せにしてあげてね」
努めて平静を装い、紀子は振り返らずに玄関に走った。
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