フリージア (その8)
                  
中本工業の営業担当が運転する車に乗り、下請けに着いたのは午後4時を

回っていた。母屋に軒を並べて建っていた作業場のドアを、営業担当はノック

もせずに開けた。茂夫は促されて敷居をまたいだ。町工場の臭いが充満して

いた。

          

営業担当と工場主との会話から、徹夜に近い仕事をやったことが知れた。茂夫

が中本工業に発注したものは、ほぼ仕上がりに近いように見えた。作業場の隅

の、照明が十分に届かない台の上の、織部の一輪挿しの黄色いフリージアが、

気持ちに余裕ができ、話しを営業担当に任せた茂夫の目を捉えた。空調機の

音が作業場の設備と共鳴し、茂夫の耳の中で、電車のモーター音に変わって

いった。

      

 

高校を卒業した春の故郷の駅。上り電車は既にホーム入っていた。茂夫は

焦っていたが、ホームを小走りしながら捜し、車窓の奥に、セーラー服から

ワンピースに変身した紀子の姿を見つけることができた。茂夫は手まねで窓を

開けさせ、紙に包んだ一輪挿しと黄色いフリージアを紀子に渡した。

「ありがとう」

「元気で」

他の客に一斉に見られているような気がして、茂夫はそれ以上言葉をかけら

れず、手を小さく振るのがやっとだった。電車はゆるやかにカーブを切り、窓から

振られた紀子の手は見えなくなった。

         

何回かの春が過ぎた年の晩夏に、茂夫は紀子からの手紙を受け取った。

「過ぎ行く夏が私の青春に挽歌を口ずさんでいるようです。縁あって、この秋

結婚することになりました。私の青春に彩りを添えてくださったあなたに、こころ

からのお礼を申し上げます。この先どのような人生が待ち受けているのか知れ

ませんが、春になったら、織部の一輪挿しに、黄色いフリージアを挿し、私の

心を解き放ちたいと思っています。」

          

「ありがとうございます。毎年この季節になると、家内がこの花瓶を出して、

この黄色い花を挿すんですよ。」茂夫の「いい香りですね」の言葉に、下請け

の工場主が腰を折りながら答えた。

   

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