竜胆(りんどう)    (その9)
                  

紀夫には妻に見せたことの無い写真が一枚ある。紀夫の横にはりんどうの色に似たワンピースを着た茂美が立っている。

紀夫の町のはずれには雑木林があった。紀夫はその雑木林に流れる風の音を聴くのが好きだった。下草が少しずつ緑の色を失っていくにつれて、少し重たく感じる風が、少しずつ軽く涼しくなっていくのが感じられる頃が特に好きだった。

紀夫はその日そんな風を期待して、学校から帰ると自転車を走らせた。雑木林の端で自転車を降り、林の中へ入っていった。風が心地よかった。暫く歩くと、下草の中に吾亦紅(われもこう)の暗い紅色が目に入った。近くで見ると何の変哲も無い草花だが、その丸さに何かひきつけるものがあった。ちょっと足を速めて近づくと、吾亦紅の根元に薄紫の竜胆(りんどう)が咲いていた。「茂美」思わずそう呼ぶところだった。去年も一昨年も、その前の年も、この雑木林で紀夫はりんどうに出遭い、茂美を想った。

  

 

「今年こそ」そう思いながら、紀夫はりんどうを数本引き抜いた。急いで自転車に戻り、茂美の家へ自転車を走らせた。

その夜、りんどうを差し出した時の茂美の微笑みを思い出し、紀夫は机に開いた本のページをめくることが出来なかった。そして思った。この季節の風が好きなのは、本当はりんどうに出遭えるからなのではないのか。

この写真を撮って何年経ったのか。あの時紀夫は、茂美の唇を感じながら、堅いつぼみの先をほんの少し開いた雑木林のりんどうを想っていた。

   

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