竜胆(りんどう)   (その10)
                  

茂美には遂に夫に見せずに終わったワンピースが一着ある。いつか仕立て直して着たいと思っている。その日の来るのを今も少女の心で夢にみている。

「何もなかったヮ」茂美はつぶやいた。

何をと訊かれると答えに窮してしまうが、何か起こらないかしらと淡い期待を胸に秘めた茂美の夏が、最後の一頁をめくろうとしていた。

遠い山並みの手前に横たわる雑木林が茂美の部屋の窓から見える。その窓ガラスの一番下の端に、自転車に跨ったまま、右手に花をかざした紀夫の姿が目に入った。はにかみながら差し出されたりんどうを受け取り、香りを嗅ぐ仕種に紛れて、茂美はそっと一輪に唇を当てた。その年の茂美の日記は、その日の一頁があればそれで十分だった。

  

 

茂美は姉に頼んで薄紫のワンピースを仕立てて貰った。茂美はそれを着て、帰省した紀夫と初秋の湖に遊んだ。年が明けたら結婚することになったことは、紀夫には手紙で知らせてあった。紀夫はそのことは口にしなかった。

「お願いがあるんだけど」

そう言って茂美は目を閉じ、婚約者にも触れさせていない唇で紀夫を待った。頬をそっと流れたのが、初秋の湖畔の風だったのか、紀夫の呼吸だったのか、茂美には分からなかった。

もう一度あの風を感じたい。茂美は今、紀夫からの返事の便りを待っている。

   

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