土曜の夜だというのに、客は二人だけだった。
やまあいの宿の夕食は、静寂でありながら紀子の心を騒がせた。鎮めようと口にしたお酒が、却って紀子の意に反してきそうな気配がして、紀子は慌てた。
紀子は山を降りながら手折ってきた竜脳菊の束を持って、露天風呂へ下りた。先に入った茂男は脱衣場の灯りを消していた。紀子はタオルを持った左手を前にして、右手で竜脳菊を持ち、香りを嗅ぎながら静かに体を湯に沈めた。離れて正面にいる茂男の表情は湯気に霞んでいた。
そよとした風も無かった。竜脳菊が茂男のいる方へ動くように、紀子は手で湯面に波を
作った。
「これが竜脳菊?」茂男が言った。
肯きながら、この菊湯の香りを忘れずにいられるだろうかと紀子は思った。
茂男は紀子の知らぬ間にこの世を去っていた。年の瀬に受け取った喪中はがきには茂男の奥様の名前が記されていた。茂男は冬山のなだれに巻き込まれて死んだことを、年が明けてから紀子は知った。その年から、茂男の命日になると、紀子は竜脳菊を飾るようになった。
紀子は今年も玄関に竜脳菊を活けた。竜脳菊をお風呂に入れたことはまだない。
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