眠りそうになったのか、まどろみから覚めたのか、辰男の耳に、お湯を静かに流す音が聞こえた。湯気で作った塑像のようなものが、静かに、吸い込まれるように、湯の中にやさしい曲線を沈めていく様が、薄く開いた辰男の目に入ってきた。湯気の塑像は首から上の大きさになり、湯面の上に静かに浮き、辰男の方を向いていた。辰男は動くことが出来なかった。
どれほどの時が流れたのだろうか。一握りの花束が、湯面の揺れに乗って辰男の前に近づいてきた。初めて嗅ぐ香りだった。辰男はその花束を薄く開けた目で見ながら、その香りに酔っていた。
翌朝、辰男が食堂に入ると、濃い小豆色のシャツを着た女性と目があった。軽く会釈され、辰男もつられて会釈した。女性のシャツの胸ポケットに、昨夜見た花が一輪挿してあった。女性は静かに食堂を出て行った。宿の主人から、花は「竜脳菊」といい、女性客が宿への道すがら手折ってきたものだと教えられた。
その夜、紀子の出た後の風呂に入るとき、辰男は玄関に活けてあった竜脳菊の一本を抜き取り、風呂に浮かべた。風呂場の灯を消し、窓を少し開けると、風呂場の湯気が闇に流れて出て行った。闇の中にやさしい曲線の湯気の塑像を辰男は見ていた。
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