タンポポ       (その15)
                  

夫のボブは、夕食のビールの眠気に抗しきれず、ソファーで眠り始めてしまった。二人分の食器を食洗機にセットし、ボタンを押して、紀子は自分の仕事部屋に入った。迷うことなくピアノ小品集「たんぽぽ」のCDをトレーに乗せ、中指で押した。スピーカーからキーボードの音が床の上を転がりはじめた。紀子は目を閉じた。

春の陽がカーディガン越しに心地よい日だった。紀子は茂男を電話で誘い出し、多摩川の河川敷を上流に向かって歩いた。春の嵐が残していったチリが舞っているような空だった。その中で最も青いところを選んだように、白い雲が浮かんでいた。散歩道の足元にタンポポを見つけると、茂男はそれを抜き取り、紀子のカーディガンのボタンホールに差し込んだ。紀子は胸のふくらみで茂男の指を感じた。

ゼミで一緒だった頃の話から今の仕事の話、そして週末の過ごし方の話へと移った。紀子は本題をなかなか言い出せないまま、米国へ帰ったボブのことをあれこれと茂男に話した。
「君を今以上にしあわせにする自信は、残念だけど今の僕にはまだないよ。」
茂男が紀子の顔を覗き込むようにして言った。

披露宴での茂男のスピーチは紀子のこころを優しく満たしてくれた。

3分47秒の「たんぽぽ」が終わり、次の曲に変わった。ボブとの生活は楽しく、幸せだった。 米国でガーデンデザインの仕事を続けてくることが出来たのもボブの理解のおかげだ。あれから何年たったのか。 突然溢れてきた涙に紀子は動揺した。それは消えてなくなっていたはずだった。いつの間にか、そう、いつの間にか元の形を思い出したように、紀子の中で大きくなっていたのだ。それが大きくなるのは、最早止められないように紀子には思えた。

今日は茂男の誕生日だった。
紀子はもう一度「たんぽぽ」を再生させた。
引っ張るでもなく、後ろから押すでもなく、内から力の湧き出るのを待ってくれるようなこの曲が、今の紀子は気に入っている。
紀子はノートPCを引き寄せ、茂男のアドレスを選択した。
  

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