タンポポ       (その16)
                  

夕食の後のコーヒーを淹れた。2度目の米国出張の時に買ってきたイタリア製のカップを食器棚の奥から久しぶりに取り出してコーヒーを注いだ。カップから漂う香りを楽しみながら茂男は書斎へはいった。ノートPCの電源を入れた。いつのまにか虫の声が聞こえなくなっていることに気づいた。ファンの音だけが唸るように部屋に響いた。机の上のフォトスタンドのガラスの向こうから、歳を重ねていない妻の杳子が微笑みかけている。

今夜は何を聴こうか。決めあぐねながらメールボックスを開いた。リストの中から「紀子」の二文字が茂男に声を掛けてきた。すぐにでもそのメールを開きたかったが、何十ものジャンクメールをまず削除した。読むべきメールだけが残った。ポインターを「紀子」の上にもっていった。紀子の頬を突くようにクリックした。

鍵盤の上に真紅のバラが一輪。ソフトフォーカスの写真をバックに、
「お誕生日おめでとう。お元気ですよね? 
お祝いにピアノの小品を一曲お贈りします。 
私のお気に入りの rakira さんの「たんぽぽ」です。
こちらのurlからどうぞ。 http://www.nor ・・・・・・。 紀子」

URLをクリックすると、身体を引き上げてくれるように、キーボードで奏でる曲が流れてきた。茂男は、この曲が今気に入っているという紀子を想った。

ノートPCの画面は、茂男が初めての米国出張で降り立ったロチェスター空港にフェイドインした。手荷物だけで来た茂男はフラワーショップへ直行した。真紅のバラを10本の花束にして貰い、車寄せに立った。それを待っていたように、ステーションワゴンが茂男の前に滑り込んだ。多摩川で散歩した頃の紀子の笑顔が運転席にあった。夜の帳の下りた平原の中を、紀子の家へ車は走った。

紀子の夫のボブと三人の夕食は、ワインもほどよく入り、楽しいものだった。
「昼までにマンハッタンへ戻るんなら、あまり夜更かししないほうがいいわね。」
紀子は言いながらバスルームへ案内してくれた。片目をつむりながら渡してくれたバスタオルには、"N"の刺繍があった。空港でハグしてきた時の紀子の香りがしみ込んでいた。

翌朝、ボブが見送ってくれた。家並みが消えた辺りの坂道のカーブを、大きく緩やかに上り詰めると、フロントガラス一面にたんぽぽが広がった。朝日に輝くたんぽぽの平原に、茂男は一瞬息を呑んだ。紀子に会うのはこれが最後かもしれない。しばらく走ったところで茂男は言った。
「最後のお願いかもしれない。」
「何よ。」
「キスしてもいい?」
紀子は車をたんぽぽの平原に乗り入れてエンジンを止めた。 ハンドルを放した両手を膝に置き、茂男に顔を向けた。にこっとして目をつむった。

曲が終わった。ノートPCの画面はソフトフォーカスの真紅のバラに戻った。
茂男はガラスの上から杳子の頬を親指でなでた。
  

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