ミモザアカシア   (その17)
                  

茂男の起床が遅かったので、土曜日の朝食はブランチになってしまった。食事の片付けを済ましたが、今日は茂男がコーヒーを淹れに台所に来ない。たまには私が淹れようかと紀子はミルを棚から下ろし豆を入れた。ハンドルを回し始めて、今年が結婚30周年であることを思い出した。

お湯が沸く間にと思い、もう何年も見なかったアルバムを書棚から取り出してきた。カウンターに置き、どのページとも決めずに開くと、紀子がミモザアカシアの下に立っていた。紀子は懐かしさがこみ上げ、新婚旅行よりも、大学に入る前の春のことを想い出していた。

紀子の家の庭には当時としては珍しくミモザアカアシアの木があった。春になると庭の一隅をひときわ明るくしてくれた。紀子は春の庭のその一隅に自分の学習机の椅子を持ち出し、クッキーと大き目のカップのミルクティーで紀子の文学の世界に遊んだ。それが中学生の頃からの春の楽しみだった。

紀子が高校を卒業する春のことだった。いつものようにミモザアカシアの梢の下でミルクティーとクッキーで紀子の文学の世界に遊んでいると、生垣の向こうの通りを歩いていた人が立ち止まったように思われた。暫くして立ち去る靴音がした。

その次の日も同じように誰かが足を止めた。紀子はちょっと躊躇したが、椅子から立ちあがり、ツゲの生垣越しに通りを覗いた。外国人の男と目が合った。紀子が目をそらそうとすると、その男が会釈した。つられて紀子は笑顔を返してしまった。男はたどたどしい日本語で、パリの実家の中庭にあるミモザアカシアを思い出して、今日も見に来たのだと言った。聞けば、紀子が四月から行く大学を卒業し、夏までにパリに帰るのだという。紀子はいつの間にか男を庭に招じ入れていた。

紀子は大学在学中に、あるいは遅くとも卒業旅行でパリに行き、中庭にレストランのあるプチホテルに泊まりたいと思っていた。高校に入ると同時にラジオ講座を聴き始めた紀子のフランス語よりも、そのパリから来た青年の日本語の方が上手かった。微妙な表現になると英語やらフランス語やらが混じった。青年の話では、母親はモンマルトルの一角で、中庭にテーブル10卓ほどのカフェがあるプチホテルを経営していた。日本文化を知るために日本の大学に入ったが、パリに帰ったら母親と一緒にそのプチホテルを経営するのだという。

紀子がノートを差し出すと、青年は「パリに来たら是非」と言いつつ、ノートの最後のページにアドレスを書き、笑顔で去って行った。

卒業旅行で念願のパリ行きを親友と二人で実現した。青年のプチホテルに予約を入れることができた。見覚えのある顔が紀子たちを出迎えてくれた。紀子たちの後ろから、品のいい年配の女性が赤ちゃんをあやしながら入って来て、レセプションの後ろの部屋に消えていった。
  

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