ミモザアカシア     (その18)
                  

「今年は30周年よね。」妻の紀子はそう言いながらコーヒーを乗せたトレーをテーブルに置き、持っていたアルバムを開いた。紀子をミモザアカシアの下に立たせて茂男が撮った写真があった。久しぶりにその写真を見た茂男は、あの時自分は誰を撮ったのだろう、と思った。

モンパルナスのル・セレクトのテラスにケイの姿はまだなかった。茂男はガルソンにコーヒーとクロワッサンを注文して時計を見た。丁度ケイと約束した時間だった。

茂男のロンドンでの仕事は順調に片付いた。茂男がパリで一泊してから成田へ向かうことを知ったケイは、「シゲオ、明日ル・セレクトで会いましょうか。私も月曜日にモンパルナスの書店に行く約束がありますから。」

ギャルソンがコーヒーを運んで来るのと一緒にケイが茂男の隣の椅子に腰掛けた。仕事の話抜きのケイとの会話は、映画から音楽に移り、更に花へと飛び、早春のパリはミモザアカシアだということになった。するとケイが、
「シゲオ、ランチは私の泊まるホテルで一緒にどう? 中庭にミモザアカシアがあるの。」歩いて行くにはちょっと遠いというのでタクシーを拾った。ポン・ヌフを渡り、ちょっと走ると上り坂が増えてきた。タクシーから降り、歩道に面したどこにでもあるような扉を開けると、そこはテーブルが10卓ほどしつらえてある中庭だった。隅にミモザアカシアの木が一本、早春の陽を浴びていた。

「ちょっと贅沢だけど、シゲオの仕事を祝って乾杯しましょう。」
既にオーダーしてあったのか、シェフともギャルソンとも見える若い男が「いらっしゃいませ。シャンパン・ア・ロランジュです。」と茂男に向かって言いながら、フルート型シャンパングラスをテーブルに置いた。ケイが「日本語を話すの?」と訊くと、「日本の大学を卒業しました。」とフランス語で答え、急いでキッチンへ戻った。

ケイに促されてかざしたグラスの先に、ミモザアカシアが微かに揺れ、ケイの瞳が茂男に微笑んでいた。シャンパンと共にオレンジの香りが茂男の口の中に広がり、熱くなった胸を静かに流れた。茂男はシャンパン・ア・ロランジュが半分ほど残ったグラスをかざしたまま、グラスを眺めているように見せかけて、ミモザアカアシアを背にしたケイの顔を、そして瞳を見つめていた。帰国後、お互いにビジネスのレターの最後に、差しさわりのない程度に私的なことをP.S.として書いた。半年ほどしてから、ケイの上司からケイが退職したことを知らせてきた。茂男は、ケイの自宅の住所を訊いておかなかったことを後悔した。

それから数年、ケイの瞳を忘れることができないまま、茂男は結婚した。
  

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