(その19)
                  

家のことは心配しないで。」
電車に乗り込む弟に紀子は言った。

茂男が紀子の手の届かない遠くへ行ってしまったように、弟の登志夫にも、この家から自由になり、思い切り広い世界へ飛び立って欲しいと、紀子は心から思っていた。電車がホームから離れ、やがてカーブの向こうに消えると、小学5年生になる春、このホームで同じように見送った茂男のことを、紀子は思い出していた。

小学一年生。
紀子の隣の席は東京から疎開してきていた茂男だった。男の子は全員坊主頭の中、茂男だけは坊ちゃん刈りだった。それから4年間、紀子と茂男はずーっと同じクラスだった。茂男の家族が疎開していた家が紀子の家と近かったこともあり、学校から一緒に帰り、紀子の家でよく遊んだ。
「この桐の木はね、私がお嫁に行く時に切るんだって。お父さんが言ってた。」
「ふーん。どうして。」
「知らない。」
二人の頭上で、薄紫の桐の花が五月の風に揺れていた。桐の木の成長に合わせて、茂男の存在が自分の中でも大きくなっていくことを紀子は感じながら高校生になった。


       
高校生の夏、留学で米国にいるという茂男から航空便が届いた。米国へ行く前に便りを貰えなかったことが紀子の心に澱みを作った。茂男は遠くへ行ってしまったのだと紀子は悟った。
紀子の青春は、あの夏、陽炎となって消えていった。

父の介護のために、紀子は母と相談して、家を建て替えることにした。
「この桐の木が邪魔になりますね。」設計士が言った。
「切りましょう。」躊躇無く答えた自分に紀子はびっくりした。
庭に積まれた桐の枝の束をじっと見つめる車椅子の父。その目に涙を見た紀子は動揺した。何の涙だったのか。紀子がそれを訊きそびれている日が続くうちに、父は逝ってしまった。

紀子は自分のために桐の木の苗を庭の隅に植えた。
「そんなに何年も待てないだろうに。」
母が寂しげに笑いながら言った。

  

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