(その20)
                  

「この桐の木はね、私がお嫁に行く時に切るんだって。お父さんが言ってた。」
「ふーん。どうして。」
「知らない。」

写真を見ながら、茂男は小学生の頃の疎開先での紀子との会話を思い出した。紀子がお嫁に行くとき、何故桐の木を切るのか。あのときの茂男にはそれが分からなかった。何年かたってから、成長の早い桐の木で嫁入り道具の箪笥を作って貰うためだということを知った。

花が咲いた桐の木の前で二人が並んだ写真だ。この写真を持って行くべきかどうか迷った。茂男は米国留学のために日本を離れる日を数日後に控えていた。紀子にはまだそのことを知らせていなかった。

紀子に知らせるべきだろうな。そう思い、懐かしい思い出をあれこれたどったが、結局茂男は、紀子には何も知らせずに米国に向けて発った。写真はノートの間に挟んでバッグに入れた。米国での生活が落ち着いたら、近況報告ということで手紙を書こう。そう決めた。
    
渡米してからの茂男は勉強に集中した。紀子に近況報告の手紙を書いたが、返事の来ないことも忘れるほどだった。大学卒業後も米国にとどまり、金融の分野では名の知られた企業に入った。傍目には充実して見えるだろう日々が続いた。だが、茂男の心の片隅には空しさが巣くっていた。
    
茂男が日本に戻ることにしたある年の五月に、同僚が郊外へのドライブを企画してくれた。川沿いを走り、住宅がまばらになると、その先は草原だった。草原を二つに切り分ける線のような道を走り続けると、右手奥に、枝という枝の先に薄紫の花を鈴なりにつけた木が茂男の目に入った。懐かしさがこみ上げた。車を止めて貰い、その木に向かって茂男は走った。我を忘れて走った。桐の木だった。桐の花だった。紀子と一緒に吸い込んだあの桐の花の香りだった。

   

紀子が見送ってくれたプラットフォームは昔と変っていないように思えた。改札を出ると、さすがに街並みは変っていた。多分歩いて行けるだろう。そう思い、茂男はタクシーに乗るのをやめた。あの山の向こうが東京だと、いつも眺めていた山並みは昔のままだった。しかし、歩きながら思った。俺は何しにここへ来ているのだろう。

紀子の家はそこにあったが、建て替えられていた。桐の木は消えていた。紅葉の生垣の向こうに、薄紫の花をいくつかつけた桐の若木が見えた。
「そうか。」
茂男は納得した。
家の中から人が出てくる気配を感じた。茂男は急いで踵を返し、今来た道を駅に向かった。そして、紀子の幸せを祈った。

  

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