バイカウツギ     (その21)
                  

出張の疲れを多少引きずった気分で階下に下りてきた茂男の目に入ったのは、黄色いキンシバイだった。バイカウツギはまだ咲いていないのかな、と思いつつ居間に向かった。庭の奥に白いバイカウツギの咲いているのがガラス越しに見えた。妻の紀子は毎年バイカウツギを飾ってくれるから、二、三日待ってみよう。そう思いつつ、初めてロンドンへ出張したときのことを茂男は思い出していた。

日本が梅雨入りの時期だった。同僚から、梅雨の間ずっとロンドンにいられるのはいいよなぁ、と言われた。そんなものかと思いつつ、茂男は仕事以外の一つの期待感を膨らませていた。社長秘書のジャニス・トンプソンに会えることだった。

通信手段としての手紙や電報やテレックスの文章から、茂男はジャニスのイメージを完璧に作り上げていた。バイカウツギ。花の名前などあまり知らない茂男だったが、バイカウツギだけは特別だった。ジャニスを花に譬えたい。茂男は真剣に図鑑を探したのだ。

ジャニスの印象は茂男の期待を裏切らなかった。


ロンドン滞在中の仕事はかなりハードだった。それでも、秘書ジャニスのきめ細かい調整のお陰で、出張の目的はほぼ完璧に達成できたと茂男は判断した。翌日は日本に帰るという日、社長と二人だけで落ち着いた店で昼食を終えてオフィスに帰ると、
「シゲオ、今日のディナーは二人でしましょう。ボスには断ってありますから。」
ジャニスが言った。
「嬉しいですね。」
言いながらガラス越しに社長室を見ると、茂男に向かって社長がウインクをした。
   
店に現れたジャニスは、襟なしの白いブラウスの上に、オリーブの葉色のジャケットを着ていた。茂男の心に残るディナーとなった。デザートが出たところに、茂男が昼のうちに注文しておいたバイカウツギの花束が届いた。
「ジャニス、僕が東京で思い描いていたあなたのイメージはこの花です。微塵の違いもなかった。」
ジャニスはおどけるようにして花束を受け取った。
  
ジャニスは茂男をホテルまで送ってくれた。車寄せからホテルの中に入ろうとする茂男をジャニスが呼び止めた。運転席を覗き込もうとした茂男の顔を両手で引き寄せ、ジャニスは茂男に軽くキスした。あっけに取られている茂男に、ディナーの席では見せなかったダイヤモンドの指輪をはめた左手を見せ、ウインクをしてアクセルを踏んだ。

「あなた、キンシバイもいいでしょう?」
玄関から、妻の紀子の声がきこえた。
「そうだね。」
答えながら、紀子の何かが変ったことを茂男はその声に感じた。
  

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