バイカウツギ     (その22)
                  

昨夜ロンドンから帰った疲れで夫の茂男はまだ起きていない。茂男が起きてくる前に花を替えよう。そう思って紀子は庭に出た。花の終わったツツジとシャクナゲの奥に、バイカウツギとキンシバイが咲いていた。紀子は一瞬迷ったけれど、黄色いキンシバイを一枝切った。両手が露で濡れた。そのまま玄関へ向い、用意しておいた黒い竹組みの花かごに挿して、履物入れの上に置いた。どうしてバイカウツギを切らなかったのだろう。ふと湧いた疑問を詮索する代わりに、紀子の回想が始まった。

翌日に新製品発表会を控えていた日のランチタイムだった。同期の岡野伸治が取引先の女子社員と婚約したとの話を同僚から聞いた。紀子は平静を装うのに懸命になった。

その日の午後は仕事に集中できない半日だった。アパートに帰り、翌日のパーティー用に、半ば岡野伸治を意識して用意しておいた洋服を箪笥に戻した。何にしよう。兎に角、心の浮き立つようなものを着る気分ではなかった。迷いに迷った末に決めたのは、白の襟なしのピンタックブラウス。背中に丸い小さいボタンが一列に並んでいる。下は、もえぎ色のジョーゼットを2枚重ねたロングスカート。ベルトはねずみ色に近い茶色。

    
紀子はマーケティング部の一員として、新製品発表会とそれに続くパーティーに出席した。岡野伸治の姿もチラッと見えたが、近寄らないようにした。顔見知りの取引先の相手を一通りした。料理を取りにテーブルに近づくと、飾ってあった花の中から、白い花を一輪抜いて胸ポケットに差した男性と目が合った。
「この花、持って帰って部屋に飾ります。あなたの代わりに。」
紀子に微笑むと、男性は急ぎ足で出口に向かって去ってしまった。一瞬踵が出口に向いたが、紀子は思いとどまった。    
テーブルの花を見ると、男性が抜いた白い花はバイカウツギだった。父が好きで庭に植えてあった花。梅雨入りの頃になると、父が一輪挿しに挿して紀子の机の上に置いてくれた花だ。その父ももうこの世にいない。今日、紀子が選んだ洋服は、父の好きだったバイカウツギをイメージして選んだ組み合わせだった。男性のひとことが紀子は嬉しかった。

その夜紀子は、脱いで壁にかけた洋服を眺めながら、記憶に朧気に残っている男性の顔をはっきりしたものにしようとしたが、思い出せたのは父の顔だけだった。

茂男と結婚し、住むことになった家の庭に、紀子はバイカウツギの苗を植えた。3年目の梅雨入りの頃、初めて白い花を付けた。まだ樹高が低いので短く切り、一輪挿しに挿して玄関の履物入れの上に置いた。
「おっ、僕の好きな花だ。」
意外にも茂男はそう言って喜んだ。

あれから三十数年。バイカウツギを玄関に飾ることは、梅雨入り時の紀子の儀式となった。茂男もそれを待ち望んでいた。それが、今朝はどうしたのだろう。キンシバイを飾ることになった。紀子は自分の中で何かが変わり始めていることを感じていた。
  

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