待 宵 草       (その24)
                  
紀子がフリーメールのアドレスを使って夫の茂男とメル友になってから数ヶ月になる。茂男はまだ相手が自分であることに気づいていないと紀子は確信している。
メル友としての茂男への数日前のメールで「待宵草に何か想い出がありますか」と書いた。
「一番大事にしている想い出については、ここでは書けませんが」と断り書きをして茂男が書いてきたのは、紀子と共有しているはずのあの想い出ではなかった。紀子はそのことに安堵すると同時に、成りすましのメル友になっていることの罪悪感に息苦しくなった。茂男から求められるままに、紀子は一番大事にしている想い出話を書くことにした。
     
    
紀子の通っている高校がある町の秋祭りの夜だった。友達三人と連れ立って祭りへ行った。帰りのバス停はひどい押し合いで、紀子が乗り込めないまま友達二人を乗せたバスは出てしまった。途方に暮れている紀子の肩を叩いたのは従兄弟の茂男だった。
「学校に自転車を置いてあるから送るよ。」
そう言うと茂男はもう学校に向かって歩き出した。人ごみの中を茂男を見失うまいと紀子は懸命だった。ゆかたの裾が邪魔をして思うようには歩けなかった。それでも学校へ向かっていけばいいのだからと、安心して茂男の後を追った。

クラスは違うが二人が通う高校は扇状地の下のはずれにあるので、上の方にある紀子の家に帰るにはなだらかな登り坂の道ということになる。茂男が苦しそうになったら降りて歩けばいい。そう思って紀子は茂男に促されるままに自転車の荷台に乗った。
「しっかり掴って。」
茂男に言われて紀子はサドルの後ろの方を両手で掴まえようとした。紀子の両足が左側に垂れ下がっているので、茂男はバランスを取り難そうだった。大きく揺れて、荷台に乗っているのが大変になった紀子は、ためらいがあったが、思い切って両手を茂男の腰に回した。自然に紀子の頬は茂男の背中に触れた。茂男の息遣いが耳に伝わってきた。
    
   
道は川原の土手の下にきて土手の斜面に沿って上へ向かっていた。紀子は荷台から降り、茂男は自転車を押して土手の上まで上り詰めた。それまで道を照らしていた月を雲が遮り、二人を薄闇が包んだ。しかしそれも一瞬だった。薄闇の底が川原に接する辺りに、黄色い風がたゆとうているように見えた。月の光りを全身に浴びていた花びらが、雲間に隠れた月に代わって、二人の道を案内してくれているように思えた。
「茂男さん、あれ。」
「うん。」
茂男もそれが群生する待宵草の花であることに気がついているようだった。自転車をスタンドに立てた茂男の体に紀子は両手を回した。その紀子の肩を茂男は片手で抱き、月の光のたゆとうている川原に見とれていた。

どれほどの時が流れたのだろう。茂男に促されて荷台に乗った。川原から数分で紀子の家に着いた。お茶でも飲んでいくように、という母の言葉を遮り、茂男は自転車にまたがり帰ろうとした。紀子は門のところまで一緒に歩き、川原で手折ってきた待宵草の花を一輪取ると、花びらを唇に挟んで茂男に微笑んだ。その花びらを茂男の口元に持っていくと、茂男は黙って同じ花びらを唇で挟んだ。

「バイバイ。」
茂男が完全に闇に消えるのを見届けると、紀子は待宵草の花一輪を丁度今雲間から姿を出した月にかざしながら家に入った。
    
   
これを読んでからの茂男の反応を紀子は予測できないまま、送信のボタンを押した。茂男との絆の強さを信じるしかなかった。
   
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