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あれは、出張の帰りの電車の車内放送でその駅の名前を耳にした時だった。茂男はそうすることが何をもたらすかなどということは考えずにその駅のホームに降り立った。中学を卒業して一家で東京に引っ越す時、クラスメートに見送られた屋根の無いホームだった。
駅のコインロッカーにバッグを入れ、タクシーに乗った。あのバス停の名前をドライバーに告げた。バス停の名前がすっと口に出たことに茂男は驚いた。
バス停から家並みを思い出しながら道を歩くと、用水池はそこにあった。コンクリートのしっかりした小道になった用水池の周囲を、水面と南アルプスを交互に見ながら茂男はゆっくりと歩いた。菊の株が増え、大きな塊になって咲いていた。茂男の足は紀子の家の方角へ向いて歩き始めていた。
突然の訪問。それも、紀子がそこに住んでいるのかも分からないまま、玄関に立った。誰が現れても構わない。その時の茂男はただ紀子に会いたいだけだった。引き戸を開けた紀子は、目の前の訪問者が茂男と分かると、一言も発せず、茂男を凝視したままその目をたちまち涙で溢れさせた。
紀子の母親の病床の部屋に通された。三人で昔話をしながら目をやった床の間には、枯葉をすべそぎ落とした残菊が活けてあった。自分の意に反して過ぎ去った時間にはこだわらず、今を生きようとしている紀子のようだと茂男は思った。しかし言葉にはしなかった。 |
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