ニッコウキスゲ    (その27)
                  
    
「来週の火曜日にニッコウキスゲを撮りに霧が峰へ行ってきますから。」
紀子は台所で食器を拭きながら夫の茂男に言った。
「天気は大丈夫かな。」
茂男はそう言いつつも既に自分の世界に踏み入れていることが紀子には分かった。

紀子は去年デジカメを買い区内の写真クラブに入れて貰った。ニッコウキスゲの最高にきれいな時期を狙って日帰りで撮影に行こうという企画に参加することにした。茂男が初夏になると「夜のニッコウキスゲもいい」と言う。できればそれを見たいと思っていたのだが、今回も見送りとなった。

紀子と結婚してから茂男は霧が峰へは行ったことがないのだから、「夜のニッコウキスゲもいい」といわせるニッコウキスゲを茂男が観たのは結婚する前ということになる。茂男に聞くといつも「学生時代だよ。」と簡単に答えるだけだった。紀子もそれ以上は訊いたことがなかった。

茂男との結婚を秋に控えた初夏のデートの夜だった。
「夏に霧が峰の夜のニッコウキスゲを見に行こう。」
と茂男が言った。
「泊まるということ?」
と言って「それは無理よ。」と続ける前に、
「外泊はだめだよね。」
と茂男が言った。
      

一泊はやめにして新宿発の夜行に乗り、茅野駅で早朝に降りて、朝一番のバスで霧が峰へ向った。
山歩きに慣れた服装や装備の人の中で二人だけが浮いた感じがして紀子は落ち着かなかった。馬力の弱いエンジンを唸らせたバスは霧の中にゆるいカーブを描きながら走るのを楽しむようにゆっくり登って行った。そう急ぐことはないのよ。紀子はバスにつぶやいた。霧が峰はやはり霧の中だった。

「諏訪湖が見えるはずなんだけどね。」
茂男が指差す方は霧が遮り、すぐ近くの山の稜線をかすかにそれと分かる程度に見せているだけだった。霧で遠くが見えないのと引き換えに、足元の草や花には露が降りていて、一粒一粒の滴に一番大事なものを閉じ込めているように見えた。私だったら何を閉じ込めるのだろう。決めかねていた紀子の目の先に茂男の靴先が入ってきて、紀子は顔を上げた。
「あっちへ行ってみよう。」
紀子の歩調を気にするように頻繁に振り返りながら茂男が先に歩いた。足元に大きな石が転がっていて周りの草花に気を取られると転びそうになった。もう大丈夫と思ったのか茂男は足を速めて歩き、ヒュッテの中に入ってコーヒーを注文していてくれた。ガラス窓の枠を通してニッコウキスゲが波を打っているのが見えた。

「ニッコウキスゲの花言葉を知ってる?」
コーヒーに砂糖をいれようとした紀子に茂男が言った。
「知らない。何?」
「君いませば心なごむ。あるいは、心安らぐ人だってさ。結婚したら、我が家には一年中ニッコウキスゲが咲いているってわけ。」
「あら。」
紀子は口元に運んだカップを止めて、微笑みながら言った。

徐々に霧が晴れ、帰りのバスの時刻を確認してから車山湿原を歩くことにした。足元が悪いのは変らないけれど、草花の種類が変り、特にアカバナシモツケの群生には感嘆した。これが上から眺めた時薄くなり始めた霧の中にピンクのスカーフが風になびくように見えたものだったのかと、初めて目にする草花の美しさに胸が震えた。

足元が笹で見えない道を歩き沢渡(さわたり)に出た。そこから車山肩までは登り道が続いた。息がきれそうになり、バスなんか乗り遅れたらいいのにとさえ紀子は思った。そうだ、このままバスに乗り遅れて帰れなくなったらどうなるのだろう。ちょっとだけ期待する芽が身体のどこかに芽生えたような気がした。

結局、バスには予定通り乗ることができ、計画通りに帰宅した。あれから何十年。ニッコウキスゲは変っているのだろうか。私は間違いなく変っている。来週の火曜日は、あの時と変らずに感激できるだろうか。紀子は行くのに少しだけ臆病になってきた。

来年は夜のニッコウキスゲを茂男と一緒に見に行こうと思う。
   
   
inserted by FC2 system