ニッコウキスゲ      (その28)
                  
「来週の火曜日にニッコウキスゲを撮りに霧が峰へ行ってきますから。」
去年からデジカメに夢中になっている妻の紀子が台所で食器を拭きながら言った。
「天気は大丈夫かな。」
言いながら茂男はニッコウキスゲの群生を思い描き、そこから思い出の糸を手繰っていた。

大学の最後の夏休み、まだ就職先は決まっていなかった。そして葉子からはこの秋に結婚することになったとの便りを受け取っていた。その葉子にはお祝いの言葉をまだ送っていなかった。そして今小諸の家に帰ってきたことも知らせていなかった。
「葉子さんは結婚するらしいよ。」
母はそういいながら、それでお前はいいのか、と言外に訊いているようだった。
「そうらしいね。」
茂男はそれ以上は言わなかった。就職もせずにこれから海外ぶらり旅に出るような自分にその結婚待ったなどと言える資格もない。茂男はそう思っていた。今小諸に戻ってきているのは、日本を離れる前にもう一度あの車山高原のニッコウキスゲを見ておきたいと思ったからだ。春のうちから一泊の予約をヒュッテに入れて計画していた。

朝早くに家を出て、小諸からどうやって車山高原までたどり着いたのか、はっきりルートは思い出せない。ヒュッテの泊まりの手続きをしながら、主人のアドバイスを聞いて外に出た。道を少し歩くと、眼前にニッコウキスゲの群生が広がった。黄色い花が、明日には開こうとしている蕾を従えて揺れていた。涙が出そうになった自分に茂男は戸惑った。頭ほどもある石がごろごろしている足元に注意しながら一面のニッコウキスゲを眺めて暫く歩いた。空の青さが徐々に力を失い、星の数が増えていった。茂男は灯りのともったヒュッテに向って歩き始めた。
     
    
    
ヒュッテの玄関を入ると、受付の男性が茂男の視線をロビーの隅に誘いながら「お知り合いの方ですか?」と訊いた。視線の先に葉子が立っていた。

茂男の方に近づきながら、
「今朝、町で偶然お母さんにお会いして、こちらだとお聞きしたので・・・。」
葉子はそう言いながら、茂男に促すようにソファーに座った。茂男が並んで腰掛けると、葉子はニコリともせずに言った。
もう小諸に戻るバスのないことは承知している。親には松本の友達の家を訪ねると言ってきた。部屋は全部ふさがっているので、同じ部屋でかまわなければどうぞとヒュッテの人に言われた。私は一緒でも構わない。
そこまで言い終わると初めて葉子はニコリとした。

「大胆なことをする人だ。」
素直な驚きと多少の狼狽ぶりを滲ませて茂男は言った。多分喜びもあったのだろうが、それは表情には見せなかった。いや見せないつもりだったと言ったほうが当たっているかもしれない。

食事の間、葉子と茂男の共通の思い出話はとめどなく続いた。これは葉子への思いを断ち切る作業なのだと茂男は思っていた。今の茂男には葉子にあと何年待ってほしいなどと言えない。部屋に戻っても二人はベッドの端に腰掛けて話しを続けた。茂男はふと、葉子が帰りのバスのないことを承知の上で、何のために車山高原まできたのか、まだ訊いていないことに気がついた。

「ちょっと明るすぎるわね。」
葉子は立ち上がり、部屋の灯りを消して、ベッドランプだけにした。
「もう会えないかも知れない茂男さんに私を忘れないで欲しいと思ったの。」
言いながら葉子はシャツのボタンに手をかけた。

「大胆なことをする人だ。」
今度は葉子に聞こえるように茂男は声に出して言いながら、おどけてみせた。しかし、言葉とは裏腹に、葉子のするままに任せた。
「私を覚えておいて欲しいの。」
葉子は言った。
「きれいだよ。」
葉子の肩越しに、窓ガラスのカーテンの隙間から、ニッコウキスゲの海が星明りの下に静かにオレンジ色の波を打っていた。茂男はもう一度そっと葉子を抱き寄せた。

あの夜レフェリーとなり理性の腕を高々と上げてくれたもう一人の自分がいたことに、葉子とそして自分のために茂男は感謝している。

ふとわれに返った茂男は
「夜のニッコウキスゲもいいものだよ。」
コーヒーを入れていた紀子に言った。

    
   
    
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