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「来週の火曜日にニッコウキスゲを撮りに霧が峰へ行ってきますから。」
去年からデジカメに夢中になっている妻の紀子が台所で食器を拭きながら言った。
「天気は大丈夫かな。」
言いながら茂男はニッコウキスゲの群生を思い描き、そこから思い出の糸を手繰っていた。
大学の最後の夏休み、まだ就職先は決まっていなかった。そして葉子からはこの秋に結婚することになったとの便りを受け取っていた。その葉子にはお祝いの言葉をまだ送っていなかった。そして今小諸の家に帰ってきたことも知らせていなかった。
「葉子さんは結婚するらしいよ。」
母はそういいながら、それでお前はいいのか、と言外に訊いているようだった。
「そうらしいね。」
茂男はそれ以上は言わなかった。就職もせずにこれから海外ぶらり旅に出るような自分にその結婚待ったなどと言える資格もない。茂男はそう思っていた。今小諸に戻ってきているのは、日本を離れる前にもう一度あの車山高原のニッコウキスゲを見ておきたいと思ったからだ。春のうちから一泊の予約をヒュッテに入れて計画していた。
朝早くに家を出て、小諸からどうやって車山高原までたどり着いたのか、はっきりルートは思い出せない。ヒュッテの泊まりの手続きをしながら、主人のアドバイスを聞いて外に出た。道を少し歩くと、眼前にニッコウキスゲの群生が広がった。黄色い花が、明日には開こうとしている蕾を従えて揺れていた。涙が出そうになった自分に茂男は戸惑った。頭ほどもある石がごろごろしている足元に注意しながら一面のニッコウキスゲを眺めて暫く歩いた。空の青さが徐々に力を失い、星の数が増えていった。茂男は灯りのともったヒュッテに向って歩き始めた。
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