山 茶 花    (その29)
                  
    
夕べの風はやはり木枯らしだったのだ。テレビのニュースがそう伝えていた。
昨夜布団に入ってからずっと気にかかっていた。昨日のうちに切っておけばよかったのだ。
鋏を手にしかかったのだが、朝のひんやりした空気の中で鋏を入れてあげたい。
そう思って庭に出るのを止めた。

布団に入り、灯りを消した暗闇の中にその姿を鮮やかに思い浮かべることができた山茶花。
昨夜の雨戸を飛ばさんばかりの木枯らしの中で、風をうまくやり過ごしてくれただろうか。
茂男は鋏を手に庭へ急いだ。
花は風の吹いてくる反対側だったのだろう、一枚の花びらの先端がちょっと痛んだだけだった。
茂男は何か語りかけようとしたが思いとどまり、無言で一輪に鋏を入れた。

食器棚から取り出したグラスに水を入れ、山茶花を挿した。グラスはサイドボードに置いた。
なんというタイミングだろう。茂男は数日前に見た夢を思い出した。
      

肩を叩かれて振り向くと筒状に丸めた画用紙を持った亮子が立っていた。
その画用紙を黙って茂男に渡すとさーっと自分の席へ戻った。
茂男はその画用紙を膝の上で隠すように開いた。画用紙の真ん中にピンクの花が一輪。
その両側に男の子と女の子が描いてあった。茂男と亮子ということなのだろう。

茂男はそうしたことにどう応えてよいのか分からないまま、後ろの席から茂男を見ていた亮子に
ただ「ありがとう」と顔で合図した。
その日の授業が終わり、掃除も終わって帰る時間になると、
「茂男ちゃん、一緒に帰ろう。」と亮子が声を掛けてきた。
亮子の家は茂男の帰り道の途中にあるので断る理由もなく「うん。」と茂男は答えて
下駄箱から靴を取り出した。途中何を話したかは憶えていない。
「バイバイ」と言って玄関に消えた亮子の家の庭を見ると、画用紙に描かれた花の
大きな木が立っていた。
家に帰ると、なんのことはない、茂男の家の庭にも同じ花の木が立っていた。
その花が山茶花であることを母に訊いて知った。

いつものように一日が終わろうとしている。夕陽の一条がガラス戸から差し込み、
居間の床とその反射で天井の一部が明るくなっていた。

茂男は自分の部屋に入り、今はいない母が大事に保存しておいてくれた小学校当時の
作品入れの箱を押入れから取り出した。あの絵はこの箱の中にあるはずだ。
茂男はそう確信して、箱の中を探した。あの絵は箱の一番下に裏返しにしてあった。
取り出すと、夕陽の光の中で、少し色あせはしたが、亮子の顔も、茂男の顔も輝いていた。
そこには、いっときも輝きの翳ることのないあの日からの10数年という愛おしい時間が詰まっていた。
しかし亮子に会うことは既にできない。
それだけの時間が経っていた。
   
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