山 茶 花      (その30)
                  
朝食の後片付けが終わり、洗濯を始める前に一息いれようとした紀子は、
庭の山茶花が一輪グラスに挿されてサイドボードの上にあるのを目にした。
茂男と二人だけの生活となった今では、紀子が自分でやったこと以外は茂男のやった
ことだから、グラスの山茶花は茂男が置いたことになる。庭に二本あるうちの一本で、
茂男の好きなほうだった。
茂男がグラスとはいえ花を挿して飾るなんて、どういうことなのだろう。
紀子はいぶかしく思う前に、花を切り取り、食器棚からグラスを取り出して水を入れ、
山茶花を挿してサイドボードの上に置くという茂男の一連の動作を想像して
顔をほころばせてしまった。

庭の二本の山茶花は、この家を建てるとき、二人で植木市へ行って買ってきたものだった。
二人の好みが合わなかったので二本買うことにしたのだ。
花びらの周囲が少し濃い目の桃色の花を茂男は好きだといい、桃色の柔らかい和紙で
作ったような大き目の花びらを紀子は好きだといった。紀子はそれほどのこだわりはなかったが、
茂男は自分の好きな花と紀子の好みが一致しなかったのを気にして、
「じゃー二本買って帰ろう。」と言った。
いつもなら紀子の好みをそのまま受け入れてくれるはずの茂男が、珍しく自分の好きな花に
拘ったのが、紀子には新鮮だったのを覚えている。
     
    
    
紀子のクラスメートに幸治がいた。小学校入学前から家族で紀子の町に越してきて、
そのまま中学まで一緒だった。幸治の家族の借家は紀子の登校の道沿いにあった。
二人は登下校時に一緒になることが多かった。その幸治の提案で、二人は市内の映画館へ
漱石の「三四郎」を観にいった。幸治はマドンナ役の八千草薫がどうやら好きだったようだ。
その帰り道で幸治の家の前に差し掛かると、「ちょっと待って。」と言って幸治は家に入らずに
庭の山茶花の木から花が一輪だけ着いた小枝を折ってきて、
「これ持って帰って。」と紀子に渡した。
どうしてという思いを顔に出したつもりで紀子は幸治を見たが、幸治は微笑んだだけだった。

幸治の高校進学と同時に幸治は家族と一緒に東京へ戻った。それっきりどちらからも連絡は
取らなかった。幸治への思いが自分の心の中で少しづつ成長していることに紀子は気づいたが、
その気持ちを幸治へ伝えることをするわけでもなく、秋になると幸治が住んでいた家の庭の
山茶花を見るために、紀子は高校からの下校時に回り道をしたぐらいだった。
高校を卒業して紀子は上京したが、そのことも幸治には知らせなかった。
幸治に対する思いがはっきりしないままの紀子は、幸治に知らせることで何かが終わって
しまうのを恐れているのだと思った。

上京から何年かして、紀子は茂男と出会った。数年しても茂男との結婚に踏み切れず、
両親に相談するために帰省した。その紀子に母が黙ってハガキを手渡した。
結婚して新居を構えたことを知らせる幸治からのものだった。
その夜、紀子は茂男と結婚することにしたいと両親に打ち明けた。
翌日、思い出の山茶花を見たいと思い、散歩がてら幸治の住んでいた家の方へ行ったが、
山茶花の木は植木職人がトラックに積み終えたところだった。
ぽっかり空いた穴の中に、桃色の柔らかい和紙で作ったような大き目の山茶花が一輪、
少し土を被って千切れて落ちていた。

    
   
    
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