茂男を送り出し、台所の片付けも終わって、紀子は居間に戻った。昨日拭いたばかりできれいになったガラス戸を通して庭に目をやった。庭に接した隣の家の敷地の隅に桜の木がある。

数日前が満開で、今朝はもう散り始めている。
桜のはなびらは風に流されて舞っていた。行く先が定まらず、さまよっているように見えた。はなびらの舞いを眺めながら、紀子はふとシューマンのクライスレリアーナを聴きたくなった。いつもよりスピーカーの音量を上げた。ピアノの激しい音はすぐに終わり、緩やかな中に不思議な情感がただよう音に変った。桜のはなびらはガラス戸の向こうでポリーニの演奏するピアノの音の一つ一つに合わせるように舞っていた。
はなびらとみえるのは自分の心のうつろいの一つ一つかもしれないと紀子は思った。

桜の木はガラス戸の向こうでフェイドアウトして、それに代わるように小学校の遠足で行った小高い山の頂上の桜の木が見えてきた。先生の合図で桜の木の下の思い思いの場所に新聞紙を敷き、靴を脱いで座った。顔をあげると紀子の向かいにはいつの間にか時夫が座り、既におにぎりを頬張っていた。紀子は母の作ってくれたおにぎりの包みを開けて、一つ手に取り、時夫に見られるのがちょっと恥ずかしかったが口に持っていった。おにぎりを包み紙の上に置いて、水筒の水を一口飲み、またおにぎりを手にしようとすると、おにぎりの上に桜の花びらがひとひら落ちていた。戸惑っている紀子に、「食べちゃえば。何かいいことあるよ」と時夫が言った。               
   

あの頃の自分が時夫にどのような感情を抱いていたのか紀子には思い出せない。ただ、あれをきっかけに二人は仲良しになり、共に進学し、就職してからも、時々会うようになった。春になると必ず決まって郊外の公園へ行き、桜の木の下のベンチに腰掛けては幸せな語らいが続いた。目をつむって花びらのついたおにぎりを食べた紀子は、子供心にこれが「何かいいこと」に繋がるに違いないと本当に信じていた。その後の時夫との交際がそのいいことなのか確信は持てなかったが、ひょっとしたらという思いはあった。しかしその思いも、ある日届いた時夫からの結婚披露宴の招待状に打ち砕かれた。

クライスレリアーナは8曲目になり、クライマックスへと進んでいた。半時もの間ぼやーっとしていたのだろうか。こんなことは初めてだった。ゆったりとした時間の流れだった。紀子は胸に心地よい動悸を感じた。

外へ出る用事も無く、春の陽が西に傾き始めるまで紀子は家の中で過ごした。居間を通るたびに隣の桜の木が気になった。
電話のベルが鳴った。
茂男が都心へ出てこないかという。夕食を外で一緒にしたいらしい。
受話器を置きながら、紀子は何を着ていこうかと考え始めていた。
   
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