(その32)
                  
金曜日の午後だった。茂男のところに取引先の若い担当営業が来た。
「こどもが生まれました。名前はさえこにしました。早桜子と書きます」
茂男はいい名前だと思った。子どものことを話題にひととき雑談をした。担当営業が帰ったあと、紀子を呼んで桜の見えるところで食事をしたいと茂男は思った。

紀子に電話をしたあと、どの店がいいかと思案した。公園の片隅のテラス席のあるレストランを思い出した。あそこの桜も咲いているかもしれない。しかし予約なしで大丈夫だろうか。しかも金曜日だ。難しいかもしれない。電話はせずに兎に角行ってみることにした。

ラッキーなことに、茂男たちが着く直前にキャンセルがあり、二人用の席が用意できるという。テラス席に案内された。幸い外の気温も暖かく、テラス席には心地よい風があった。茂男の席の後ろのほうに桜の木が一本あった。ほぼ満開で、ときどき風にのってはなびらが舞うほどだった。
 
紀子の前にコンソメスープが運ばれた。
ウェイターが去るとき巻き起こしたような風が流れ、紀子のコンソメスープの上に桜のはなびらがひとひら舞い降りた。あの時と同じだと茂男は想った。
     
    
    
紀子と知り合う前だった。
山の芽吹きが見たいという君江と、日曜日の朝、新宿から中央線に乗った。渓谷近くの山間までバスで行き、春の陽に輝く落葉樹の林を歩いた。昼食を取るべく街に戻った。初めての街で迷いながら暫く歩き、入り口の佇まいが気に入ってドアを押した。よろしければテラスでどうぞ、と言われて庭へ出た。桜が咲いていた。

出されたコンソメを二口、三口したところで、君江の皿に風に舞った桜のはなびらがひとひら浮かんだ。
「あらー、いいことありそう」
と言ったかと思うと、君江ははなびらをスプーンですくい、口へ運んで飲み干すと、茂男を見て微笑んだ。どうしているだろうか。あの時以来、どちらとも無く気持ちが離れていき、茂男の結婚以来交信は途絶えてしまっていた。

今夜は紀子の皿の中に桜のはなびらが落ちた。茂男は黙って見ていた。
「私は信じないわ」
何をとも言わずに、一言そう言うと、はなびらを避けてスープをスプーンですくい、口に運んだ。

    
   
    
inserted by FC2 system